新着のお知らせ

校長ブログ

~校長室の窓から~「月ミサ(雪ノ下教会 上杉神父様)」

2022.02.18

   2月の月ミサでは、雪ノ下教会の上杉優太神父様がSt.バレンタインのお話から愛の本質についてお話ししてくださいました。    

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今日、教会は聖チリロと聖メトジオという二人の聖人のお祝いをします。この二人は東ヨーロッパにキリスト教を伝えキリル文字・ロシアの周りで使われている文字でスラブ語の典礼書を作りました。

しかし、今日は世間一般では、バレンタインデーです。残念ながら、昨今のコロナ禍の影響で今はあまり盛大に楽しむということはできませんが、気になる異性に告白する日だったり、恋人がデートをする日だったり、あるいは仲のいい友達にチョコレートやお菓子をあげたり、単純にお菓子パーティをしたりという楽しい日です。

バレンタインデーは英語ではSaint Valentine’s Dayと言います。つまり、「聖バレンタインの日」です。「聖」とつくように、もともとは、バレンタインデーはキリスト教とも関係のある日でした。その成り立ちはちょっと複雑です。古代ローマでは、2月14日はジュノーという結婚と家庭を守る女神のお祝いの日でした。この日に普段は別々に暮らしていた男女がくじを引き、ペアになった人が一緒にいて、そのまま多くが結婚するという行事があったそうです。

3世紀ころ、当時のローマ皇帝が、若い兵士たちに恋人がいたり結婚したりすると、戦争に行きたがらなくなるという理由で結婚を禁止したそうです。それを不憫に思ったバレンティヌスというローマの神父さんか、イタリアのテルニの司教さんかが、こっそり若いカップルを結婚させていたそうです。そのため皇帝の怒りを買い、あえて恋人の日であるジュノーの祝日、270年2月14日に処刑されて殉教したと言われています。そこから、今日の2月14日を、恋人と夫婦の守護聖人である聖バレンタインの日として祝うようになったのだそうです。

しかし、この伝承はあいまいなところが多くあって、何人かいる殉教したバレンタインという人の中で、どの人がこの伝承のバレンタインさんなのかもはっきりしなかったので、今は公式には教会ではお祝いしなくなりました。

今の日本では、お菓子業界の宣伝もあってか、バレンタインデーにはお菓子、特にチョコレートを、好きな人、お世話になっている人、友達にあげるという日になっています。ここで大切なのは、あげるお菓子に込められた思いです。もちろんチョコやお菓子それ自体も大切ですが、そこに込められた思いや意味の方がもっと大切でしょう。バレンタインのチョコやお菓子は、それに込められた思いのしるしです。

目に見えないものを伝えるとき、私たちはしるしを使います。わかりやすいのは信号機です。赤いランプのしるしは、「進んではいけない」という目には見えないメッセージを伝えます。バレンタインのお菓子は、好きだという思いや、友情を伝えます。

愛情や友情、感謝の思い、これらはとても大切ですが、目には見えません。だから、私たちはそれを言葉にしたり、文章にしたり、贈り物に込めて、相手に渡します。それを受け取った人は、そのしるしに込められた思いを読み取ります。同じしるしでも、送り手と受け手の関係によって、あるいは受け手の態度によって、きちんと思いを受け取れたり、そうでなかったりします。

さて、今日の福音では、ファリサイ派の人たちがイエスにしるしを求めます。ファリサイ派の人たちは律法という決まり事を杓子定規に守ることに熱中するあまり、イエスが律法を柔軟に理解し、貧しい人や苦しんでいる人たちを大切にすることを苦々しく思っていました。この人たちは何とかしてイエスを罠にかけようとしていました。だからこの人たちは、実は最初から、しるしをみてもそこに込められた思いを受け取ろうとしていませんでした。

なぜそう言えるのかというと、今日の福音箇所の直前には、キリストはたくさんの奇跡を行っていることが書かれているからです。パンを増やして大勢の人たちを満たされる奇跡や、目が見えない人を見えるようにする癒しの奇跡、悪霊払いの奇跡などです。この人たちはそういったものを見ていた、あるいは耳にしていたはずなのに、しるしを信じようとせず、そこに込められた思いも受け取ろうとしません。だから、キリストは心の中で深く嘆いて、「決してしるしは与えられない」と言っています。十分にしるしは与えたのに受け取ろうとしないなら、もう意味がないからです。

しるしを理解するには、贈り物に込められた思いに気づくには、素直な心が必要です。考えてみると、私たちは様々な贈り物によって生かされています。赤ちゃんは大人の助けがないとすぐに死んでしまいます。人間は自分一人だけでは生きていくことができません。水や空気、太陽の光は神様からの贈り物です。愛情や友情も周りの人からの贈り物です。

このことに気づき、感謝し、そして自分がたくさんの贈り物をいただいたように、他の人にも与えていくことが大切です。これが愛です。いただいた愛を、神に返し、誰かに渡していくことを神様は私たちに求めています。

そして時には、困難や試練、一見悪いもののように思われることにも、よい意味が込められていることがあります。けんかするまえよりもけんかして仲直りした後のほうが、友達とずっと仲良くなることがあります。誰もが神さまにとってはかけがえのない特別な存在です。だから、きっと「悪い」ものからも、私たちのために善いものを引き出してくださいます。それが、愛である神の力です。

私たちが、神に信頼して、いただいた恵みに感謝し、受け取った愛を出会う人に言葉や行い、お祈りでお返しし、分け与えていくことができますように、聖人たちの取次ぎを祈ってまいりましょう。

 

TOP新着のお知らせ校長ブログ > ~校長室の窓から~「月ミサ(雪ノ下教会 上杉神父様)」