清泉が大事にする10の価値の6月の月目標「無償性」についてお話しします。
無償性というと難しいですが、簡単に言えば見返りを求めないこと。
やってあげたのだからあなたもしてくれるのは当然だ、逆に、あなたがしてくれないなら、わたしもやってあげない、というのが見返りを求めること。今色々と話題になっているトランプ大統領の言う「ディール」はまさにそれです。
こういうと見返りを求めるのはケチ臭くて悪いことのように聞こえますが、普通の世の中ではそれはむしろ正しいルールです。何か商品を買ったらちゃんとお金を払わなくてはいけないし、労働したら賃金をもらわなくては生活が成り立ちません。商品やサービスにそれ相応の見返り、つまり対価を払うのは社会のルールです。そうしないと、たいていは弱い立場の人たちが損ばかりすることになります。世の中は見返りや相応の対価があってこそ、公平公正、そして平等な社会だとも言えます。
でも、すべてのことに対価がつく、というのは結構窮屈で、ギスギスした社会になってしまいます。「やってあげたんだから、あなたもやってよね。」といつも要求されたら嫌になってしまいますし、そのような考え方は「やられたらやりかえす」という攻撃的な考えと似ています。私たちの生きている社会は、見返りのない善意が時々あるからこそ、皆が気持ちよくすごすことができて、見返りを求められないから、ありがとう、という感謝の気持ちも自然と心から湧いてくるのでしょう。私たちが日々過ごす中で感じる思いやりとか気遣いなども、見返りを求めない純粋に「やってあげたい」という気持ちから出てくるのだと思います。
さて、私が無償性について考えるにあたって、紹介したい聖書の箇所があります。マタイの6章で、「施しをするときは右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しが人目につかないようにするためである。」というところです。最初に読んだのは中学生の宗研の時で、そのときは聖書ってわけがわからない、と思いました。右手がしていることを左手に知らせるな、なんて「は?」っていう感じですよね。 当時指導しておられたシスターが、「右手がしていることが左手にわからないくらい、そのくらいひっそりと良いことをしなさい、自分が良いことをしているのだ、と見せびらかすのではなく、ごく自然に静かにやりなさい、という意味ですよ」、と教えてくださいました。正直それでもあまり納得はできず、「何かヘンなの」と思っていました。ただ、納得できなかったおかげで、かえってずっと心に残りました。そして、年を重ねていくうちに、この聖書箇所が好きになりました。今では結構お気に入りです。きっと、色々な経験を通して、世の中に起きることにどれだけ多くの人たちが関わっているのか、そして、どんな大きな出来事も、誰にも知られず見返りを求めない人々の誠実な行為や行動で支えられているのだ、と理解できるようになり、私もそんな風になりたいと思えるようになったからだと思います。
ところで、皆さんは学校のバス停から校門の間にバラが咲いているのに気が付いていますか?今年はきれいにそして香り高く咲いて、バラを見るのが私の朝の楽しみの一つです。バラのお世話をしてくださっているのは、卒業生の保護者の会、白水会の方たちです。いつも皆さんの授業中にお世話をしているので、皆さんが見ることはなく、いつの間にかバラが咲いているように見えますが、実は清泉の環境をもっと美しくしたいと、暑い夏の草刈り、土の入れ替えなど、年間通して丁寧に作業をしてくださった賜物です。
私たちが何気なく見ている毎日の出来事には、私たちの想像以上に多くの人たちの善意や見返りを求めない行いが隠れています。それに気づいて、感謝できる人でありたいと思います。