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校長ブログ

~校長室の窓から~「放送朝礼のお話(数学科 富田先生)」

2022.01.28

     私たちは毎朝の祈りで「天におられる私たちの父よ」と唱えます。この「私たちの父」が神なのですが、皆さんは本当に神はいると思いますか?

 神について、キリストも「父を見た人はだれもいない」と言い、新約聖書に多くの手紙を残したパウロも「どんな人も彼を見た人はなく、また見ることもできない」と言っています。神はどうやっても見えないようです。なのに神を信じると言う人はなぜ信じるのでしょうか?

 私は生まれてすぐにカトリックの洗礼を受け、小さいころから教会に通っていたのでなんとなく「神様はいるんだろうな~」と思っていましたが、「でも見たこともないのにわからない」とどこかでは思っていました。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」という一粒の麦の話がありますが、「神を信じるがために、神の教えに従って、他の人のために命までも捧げることって、それは行き過ぎじゃない?」と思ったりもしたわけです。そう思っている人いませんか?

 そこで、私は大学を卒業して数年たったとき、あるシスターと二人でゆっくりお話しする機会があったので、思いきって質問しました。「なぜシスターは神様を信じるのですか?」と。シスターは神様のために自分の人生、全存在を捧げていらっしゃるので、もちろん神様を信じているでしょうし、きっと何か確信があるだろうと思ったわけです。すると「私にも神様が本当にいるかどうかはわかりません」と言われビックリ。続いて「でも人生最後のときに『やっぱり神はいるんだ』と思っても手遅れでしょ」という答えが返ってきました。それはあっけらかんとしていて、私にとってはとても拍子抜けでした。でもそのときに「なあんだ、それでいいんだ」と思ってほっとした気持ちになったのを今でも覚えています。そのシスターはあるカトリック学校で長く校長・理事長としてお働きになり、多くの方から尊敬されていました。そんな方でもそうなんだあと思い、神を信じることに対して気持ちが軽くなりました。まあ、あとから思うと、シスターは神の存在についてきっと確信をもっていらっしゃったのだと思いますが。そこで、私は見えないことをあれこれ迷うことをやめました。

 話は少し変わって、「神様はひとりひとりを愛してくださる」ということも「それってどういうことなんだろう」と大学生まで思っていました。神様が愛してくださるということが具体的にピンとこなかったのです。でも、それは難病のALSの人との関わりの中で「神様の愛が溢れ出るってこういうことか」と知りました。また、「父と子と聖霊」の聖霊も何のことだかずっと実感できずにいましたが、この学校での担任2年目のとき、あることがどうにもならず、あがけばあがくほど解決から遠のく状況だったときに、ある電話からふっと解決に向かったことがありました。それはすーっと風が吹き1本の道が通ったようでした。聖霊は「神の息吹」と言われたり、風にたとえらることがありますが、このときに「聖霊が働くってこういうことか」と思いました。「それってなんだろう、なんだろう」と思っていると、どこかで神様は答えをくれるようです。私の人生の中ではそうでした。

さて、話を戻します。神そのものは目に見えませんし、触れることもできませんが、見えない神を信じる手がかりはあります。そのひとつは神を信じて生きた人の生涯を見ることです。それは皆さんよくご存知のマザーテレサであったり、アウシュビッツで身代わりになって餓死したコルベ神父であったり、ここの創立者である聖ラファエラ・マリアであったり、あるいは今現在、キリスト教の信仰をもって様々なところで活動している人であったり、あるいはもっと身近な人であったり。その人たちにしあわせを感じることができたら、その人たちの生き方を通して神を知ることもできるでしょう。

皆さんは縁があってこの学校に集っています。ここはカトリック学校ですから、それは神様に縁があるということでもあるでしょう。皆さんが神を知ることによって幸せな道を歩んでほしいと心から願い、祈ります。

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