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校長ブログ

~校長室の窓から~「 放送朝礼のお話し(外国語科 大瀧先生)」

2021.03.02

先々週の水曜日に「灰の水曜日」を迎え、現在は「四旬節」にあたります。今年の復活祭は4月4日(日)で、四旬節はキリストの復活を待ち望み、準備をする期間です。クリスマスの前にはイエスの降誕を待ち望む「待降節」があり、どちらも自分を振り返りながら、喜びの時に向けて備える、カトリックにおいてとても大切な時期です。今朝は、この2つに共通する「待つ」ということについて少しお話ししてみたいと思います。

 皆さんは待つことは得意ですか。それとも苦手でしょうか。晴佐久昌英神父様が書かれた「星言葉」という本の中に「待つ」ことに関しての記述があったので、紹介したいと思います。「星言葉」は様々な動詞をキーワードに書かれている本で、「愛する」「生きる」「信じる」などの他に「眠る」「遊ぶ」「食べる」など一見宗教と関係なさそうな動詞がたくさん登場します。それぞれの言葉について、ユーモアをもって、独自の視点から、「神」という言葉を一度も使わずに、全体として神の愛について語っている本です。その中の「待つ」という項目を読んでみます。

『待つ』

 思えばずいぶん待たされた。駅のホームで事故の復旧を待たされ、首都高の大渋滞で待たされ、雨の渋谷のハチ公前で待たされ、ずいぶんいらいらしたものだ。合格発表にせよ、ラブレターの返事にせよ、待つ身はつらい。

 都会のテンポがあがったせいか、最近はちょっとのことが待てない。気がつくと銀行のカードコーナーで前に並ぶ五人を呪っている。そんなときに限って、すぐ前の人が、モタモタした末にボタンを押し間違えたりして、表示がパタンと「休止」になったりする。オー、マイ、ゴッド!

 世の中が便利になるのに反比例して、待つ能力は落ちていく。戦後の窮乏時代には配給を丸一日でも待てたのに、現代人はマクドナルドのカウンターで十秒の遅れに腹を立てる。そういえば昔のテレビはスイッチを入れてから画面が現れるまで、三~四秒の間があった。そのたった数秒が待てず、今のテレビは一日中通電している。どうせその数秒で、CMを余計に一本見るだけなのに。

 待つ能力が人間の成熟度のバロメーターであるとするならば、現代人は乳児レベルに退行しているのかもしれない。赤ん坊は、待てない。泣いて暴れて要求し、今すぐ満足したい。

 しかし、命の基本は、「待ち」だ。大自然を相手にしている人なら、それをよく知っている。山住[やまずみ]は春を待ち、農民は実りを待ち、漁師は夜明けを待つ。彼らは、待つ間にも人知れず偉大な力が働いていること、やがていつか神聖な世界がたち現れることを、経験と直感から信じている。焦ってみたところで、どうなるというものでもない。不安も孤独も気持ちの底に沈澱させて、静かに謙虚に、来るべきときが来るのを待つ。それが人生ってもんだからだ。いや、それが人生の楽しみってもんだからだ。そうして待つことを楽しめる人だけが、今を生きる楽しみを知っている。

〈中略〉

 待てば海路の日和あり。ものごとすべてに、時がある。              

(『星言葉』晴佐久昌英著 女子パウロ会)

という文章です。最後の「ものごとすべてに、時がある。」という一文は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中の「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」という有名な箇所を連想させます。新型コロナウイルスに関して、なかなか出口が見えない中、不安や焦り、苛立ちを感じることも多いと思います。それでも、「ものごとすべてに、時がある。」という言葉を信じて、今自分にできることをしながら、未来を神に委ね、「来るべきときが来る」のを待てる人、「待つことを楽しめる人」になることができたら、毎日が少し違って見えてくるのではないでしょうか。

 

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