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2017.11.27

~ 校長室の窓から ~「放送朝礼のお話 (図書館 新美先生)」

 あと数日で、今年も残すところ一か月となりますが、カトリックの暦では今週で一年が終わり。
 ​今年最後のミサである「王であるキリスト」のミサが先週の日曜日に行われました。そして、今週の日曜日には待降節が始まり、
新しい一年がスタートします。

 いずれにしても、年が変わる区切り時期ですので、今日は私が大切にしている言葉の一つを紹介します。
 その言葉は、ある年配のカトリックの信者さんのエピソードに由来しています。その人は、結婚するまでキリスト教にほとんど触れることはなかったのですが、奥さんが信者だったので、それとはなしに生活にキリスト教の文化が入ってきたそうです。が、どうしても、キリスト教に馴染めなかったそうなのです。何が一番ひっかかったかというと、「汝の敵を愛せよ」でした。右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ、とか、ましてや十字架にかけて自分を殺そうとしている人を許すとか、そんなことができるのか!と。ずっと納得がいかなかった彼は、ある時、機会を得て神父様に質問をしたそうです。簡単に言うと「あなたは神父だというが、本当に、“汝の敵”を愛すことができるのか?」と。ほとんど言いがかりのようですね。
 その神父様は宣教師として外国から日本に派遣されてきた方で、まだまだ日本語が不自由だったということですが、さて、その神父様がなんと答えたか。
 その神父様は「私には出来ません。主はお出来になります。私は努力することが出来ます」とおっしゃったそうです。
 もし、その神父様が「私は許すことが出来る」と答えたら、その人は「本当にできるのか証明してみろ」ぐらいに問い詰めようと思っていたそうですが、「私には出来ない、が、努力することが出来る」との答えに納得するところがあったそうで、その後、しばらくの後に洗礼を受けたということです。
 このエピソードは彼にとって、大きなものだったのでしょう。何度か、この話を聞いたことがあるのですが、私にとって、彼の話で印象的なのは、「努力することが出来る」というフレーズでした。
 もし、「私は努力することが出来ます」ではなくて、「私は努力しなければなりません」だったら、印象はかなり変わると思います。どうでしょう?
 私は、この「努力することが出来る」という言葉に、明るい肯定的なイメージを受けました。それは、努力することを選べる「自由意志」を、この言葉の中に感じたからで、それ以来、私は、何かあったときには、この言葉で自分を励ましています。
 そして、最近では、この「努力することができる」ということこそが、私たちみんなそれぞれに神様が与えて下さったタレント(タラントン)ではないかと思っています。

 これから、新しい年に向かって進む中で、この言葉が、何かの役に立てばと思い、紹介しました。