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~ 校長室の窓から ~ 「放送朝礼のお話(国語科 瀧先生)」

2017.06.08

見るからに困っている人、苦しんでいる人に出会ったら、だれでも「なんとかしてあげたい」「助けてあげたい」と思いますよね。実際助けることができるかどうかは別として、こういう場合、だれでも「助けたい」という思いが自然に沸き起こるでしょう。中国古代の思想家である孟子は、小さな子供があやまって井戸に落ちそうになるのを見つけたら、誰であっても、「アッ大変だ、助けなきゃ」という思いを持つことから、人間の本性、心の奥底にあるものは、善の心である、それをどんどん伸ばしていくことで、人は他人をいつくしむ存在となれる、そう説きました。
こういう話を聞くと、ああなるほど、私たち人間は捨てたもんじゃないな、たしかに誰でも、優しい心というものは、心の中のどこかにあるな、と思います。でも、この誰にでもある優しい心、他人を思いやる心を、行動に移すべき相手がだれなのか、自分の助けを本当に必要としているのが誰なのかを、間違えずにきちんと判断して行動に移せるかどうか、ということになると、いつでも誰にでも、というわけにはいかなくなるのではないでしょうか。
マタイによる福音書(25:31~40)の中に、大変有名なお話があります。最後の審判のとき、イエスはどういうことをされるか、ということについて、イエスが語ったお話しの一つです。イエスは、すべての国の民を集めて、それを正しい人たちのグループと、正しくない人たちのグループに分けます。そして正しい人たちのグループに向かって、なぜそのように評価したのか、その理由をこう語ります。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」すると正しい人たちがイエスに訊ねます。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」などなど。するとイエスは言います。「はっきり言っておく。わたしの兄弟である、この最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしてくれたことと同じである」と。
貧困に苦しんでいる国のことを聞けば、私たちはその国の人たちのために、なんとかしてあげたいと思い、自分のできる範囲での寄付をしたりして、思いを行動に移します。これはいうまでもなく貴いことです。飢えて今日にも死にそうな人が救われるかもしれないのですから。ただし、あなたのすぐ近くの人、たとえば家族や友達が、飢えの苦しみでなく、心の中に苦しみを持っていることを知ったのなら、あなたはどうするでしょうか。むずかしいですよね。どうやって助けたらよいか、わかるときはいいのですが、わからない場合もよくあるでしょうから。でも、一つ確かに言えることは、どんな苦しみであれ、苦しんでいる人は、イエスの言う「小さい人」だということです。なにができるかわかりませんが、その人のことをなんとかしてあげたいと考えて、話を聞いてあげるだけでもいいのです。それも立派な「してあげる」ことだと思います。
さて、心に苦しみのない人などいないでしょう。もうおわかりの通り、イエスのいう「小さな人」とは、私たちすべてを指しています。身近に苦しんでいる人はいませんか。いたとしたら、あなたのすべきことは何なのでしょう。それを考えて、わずかなことであっても、してあげることが、イエスにしてあげることと同じなのだということを、どうか忘れないでください。

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